津田大介への公開質問状 3

わたしが「しばき隊」もしくは、C.R.A.C.に心底怒っているのは、わたしが神戸っ子だからだ。

身も蓋もない言い方をするならば、終戦直後に人種的な対立で、本当に日本刀を振り回して、殺し合いを過去にやっていた街の住人だからだ。

子供の時から、銭湯に行けば背中に「漫画」を書いているその筋の人とも、ごく普通に譲りあって、風呂に入っていた。それは、今も全く変わらない。また、同級生には、ごく普通にその筋の組長などの子供も通っていたが、それでその子が苛められていたという記憶もない。わたしの実家の近所には、かつて門扉に「代紋」を堂々と出していた家もあったが、家の前を箒で掃いている奥さんとは、時々は笑顔で談笑もしていた。

だが、それで背中に「漫画」を書いている業界の人たちを、赦せるかと言えば、そんなことは全くない。

阪神大震災で大部分の家屋が倒壊した翌日、神戸六甲道の住人は、自治会の倉庫に置いてあったテントを組み立てて、崩れた家屋からありあわせの食料と酒を持ち出してきて、倒壊した家屋の中で宴会をやっていた。そこでは、およそ人種とか国籍とか社会的な地位すら関係なく、共に被災したもの同士の一種の共同体が幻出していたのだ。

ところが、総本山からほど近いこともあり、その筋の人たちが、いち早くどこからか大量の弁当を用意して、被災者に配り始めた。だが、それを見たごく普通のおばさんは、激怒しながら、屈強な男達に突っかかって行った。「あんたらが何でこんなことするねん。そんなことして赦されると思っているんか。そんなこと、せんでもええ。何でそんなことをするねん」と、黒のスーツの上着を脱いで弁当を配るその筋の人たちに、目に涙さえ浮かべながら、噛み付いていたのだ。

寒風のなか、薄いワイシャツを通して屈強な腕に書かれた「漫画」が透けて見えているその業界の人たちが、何ごとか詫び言を言いながら平身低頭して、行く先々で罵倒されつつ、被災者に弁当を配っている姿を間近に見ながら、わたしにも、ある種のやり場のない「怒り」が湧いてくることを自覚せざるを得なかった。

だからこそ、そういう理由で、わたしは「しばき隊」もしくは、C.R.A.C.が、ウェブサイトにまで刺青をひけらかした姿を誇らしげに掲載していることを、激しく嫌悪し、そこにどうしても赦せない「怒り」を抱かざるを得ない。

そして、わたしは、「しばき隊」が、当初からそのようなあり方をしていたのに、それには目をつぶって擁護し続けた津田大介に、どうしても赦せない「怒り」を同様に持たざるを得ないのだ。

津田大介への公開質問状 2

C.R.A.C.の野間易通は、ことここに及んでも、自分たちの運動は「だいたいの正義」でいいのだと、自分たちの行為を正当化しようとしているが、わたしにはこの主張は全く理解しかねる。

確かに、「しばき隊」とその擁護者たちは、野間の「だいたいの正義」を祖述して、ことさら高邁な思想をそこに当て嵌めようと、徒らに言辞を弄しているが、わたしは、彼らのTwitterでの議論を読んでいて、もっと素朴な疑問を持たざるを得ない。

例えば、しばき隊の初期からのメンバーであると自認する神原元弁護士は、野間の「だいたいの正義」を受けて、「市民のコモンセンスに基づく『実践知』であり、独断主義に陥ることのない、可謬性の承認と両立する『正義論』」であると、これを美化している。

だが、ここで彼らの「実践」を虚心に見れば、彼らはその運動の初期から現在に至るまでずっと、批判するものをひたすら罵倒し、時には「暴力」を以てさえ相手を封じ込めようとしてきたことを、わたしはあらためて確認せざるを得ない。だからこそ、そんな彼らが「可謬性の承認」、つまり、自分たちも過(あやま)つことを認めているとは、わたしには、全くもって思えないのだ。また、少なくとも、わたしには、このような構成員からなるC.R.A.C.もしくは「しばき隊」という組織に、神原元弁護士の主張する「市民のコモンセンス」を見ることも到底できそうもない。

f:id:Nekodamashi:20151128191549j:plain

もっと素朴な疑問を言えば、そもそも、彼らが言うように「だいたいの正義」で良いのだとするなら、権力を持つ側が「だいたいの正義」に基づいて、令状なしの家宅捜索や電話盗聴、予防拘禁などの不法行為をしても、彼らはそれを「だいたいの正義」だからと、それを許容するつもりなのかということだ。

それどころか、野間は、Twitter上での発言で、神原元弁護士の「正義が暴走して何が悪い!」という言葉を受けて、それを「名言」であると称賛し、「全く同感」として「しばき隊」の「暴走」を積極的に肯定すらしている。

f:id:Nekodamashi:20151128191640j:plain


ものごとを考える上で重要なのは、前例に学ぶという態度だ。

かつて、ナチス政権下のドイツでは、ドイツ国内およびその占領地で著しいユダヤ人の迫害をしたが、これが可能となったのだは、当時ナチスに「だいたいの正義」があったからこそできたのだ。そして、多くのナチス党員が「だいたいの正義」に基づいて、ユダヤ人を強制収容所に送り込み、当時それが「だいたいの正義」だったから、当事者もそれを疑うことなく、ある種の合理性すら以って粛々と大量虐殺を行なった。

だからこそ、戦後、それを戦慄した知識人が、それを克服するために膨大な倫理的、哲学的な思考を積み重ねざるを得なかった。これがいかに苦悩に満ちたものであったかは、ハンナ・アレントの例を出すまでもないだろう。

つまり、結局のところ、彼らの言う「だいたいの正義」に依拠する以上、われわれはファシズムすら許容することにならざるを得ない。それどころか、野間や神原元弁護士の言うように、何の歯止めもなく他者への「暴力」すらも肯定し、法律さえも超越して「暴走して」良いとするなら、それはまさしくファシズムそのものであるとしか、わたしには思えない。

そして、このような思想(?)的背景をもって、まさしく「しばき隊」の久保田による個人のプライバシー権を侵害する「はすみ事件」や、新潟日報社報道部長の坂本による「高島弁護士誹謗事件」が起きたのだ。

津田大介は、飽くまでも「しばき隊」の久保田がおこした「はすみ事件」の矮小化を図ろうとしているように見受けられるが、F-Secureというセキュリティ関連会社の幹部社員が、個々人に何の同意もなく個人情報を集めて、「レイシスト」という恣意的なレッテルを貼った上で、ネット上の不特定多数にリストをばら撒き、社会的なリンチを教唆したということの意味を、本当にわかっているのだろうか?

何より戦慄せざるを得ないのは、このような思想(?)を持つ集団が、アンチ・ファシズムを標榜して、街頭をデモ行進をしているということだ。この図式は、あまりに醜悪すぎて、絶望しそうになる。いったい彼らは、何の権能をもって、自らに「思想警察」の地位が付与されたと思い込んでいるのだろうか?

「しばき隊」が、レイシズムのカウンターとして朝日新聞に登場した当初から、彼らは刺青をひけらかしがら「暴力」の論理で他者を威嚇、恫喝しながらその勢力を拡大してきた。津田大介は、それを知りながら、彼らの「正義」を積極的に擁護してきたのであり、その責任を問われるというのは、ごくあたりまえのことだろう。

津田大介を始めとするジャーナリストや知識人の容認と庇護がなければ、このような反社会的な行動指針を持つ団体がここまで勢力を拡大することはなかっただろうし、一連の事件が起きることもなかった筈だ。その点で、ジャーナリストとして、適切な批判を放棄してきた津田大介に、何の責任もなかったと言うのは、どうみても無理があるとわたしは考える。


参考

市民にとっての「正義論」〜野間易通さんの「だいたいの正義」論に示唆を得て

津田大介への公開質問状

わたしは、初めてまともに「在特会」によるヘイトを批判した津田大介の勇気と功績は認めるものの、彼がいまだに野間易通とその取り巻きである「しばき隊」を容認し続けていることは、どうしても看過できない。そもそも「しばき隊」は、発足当時からそうだったように、集団で刺青をひけらかしながら暴力をもって他者を恫喝し続けているのだが、今に至るもそこに反社会性と違法性を認めようとしない彼の態度は、ジャーナリストとしては疑問符がつかざるを得ない。

たとえそこに、反レイシズムとか、反ファシズムとかのお題目をどんなに大きく掲げようとも、それで違法性は阻却されないということが、どうも彼には理解できないようだ。現に昨年、「日韓国交断絶国民大行進」という明らかなレイシズムに基づく運動に、カウンターと称して殴り込みをかけた「男組」は、暴力等処罰法違反で幹部以下8人が逮捕されているのだが、そういう明らかな前例があるにもかかわらず、いまだに野間らを容認しようとする彼の態度は、わたしには理解し難い。

津田大介は、一連の事件を受けて、新潟日報上越支社の報道部長である「しばき隊」の坂本が起こした事件については、「職業倫理」から、その悪質さは一般人とは比較にならないと認めるものの、「はすみ事件」を評して、「行きすぎた行為」だが、「その是非はヘイトスピーチ対策とセットでされなければ意味がない」としている。

 

f:id:Nekodamashi:20151127170148j:plain

 

しかし、この事件発生当時、「しばき隊」の久保田は、セキュリティ関連企業のF-Secure幹部社員であり、 日本スマートフォンセキュリティ協会のリーダーという半ば公職とも言える重要な地位についていたのであり、Facebookの規約に違反することを明らかに知りながら、その個人情報を抜き取った久保田の行為は、坂本と同様に「職業倫理」から見て、その悪質さは一般人とは比較にならないと思われる。

また、もしこの事件が、個人情報を不特定多数に公開された被害者から、裁判として提起された場合には、Facebookでの久保田の個人情報収集の過程で職業上入手した何らかのツールが使用されたことも疑われているだけに、職権濫用でさらに罪数が加重される可能性さえあると思われる。ところが、彼の主張を素直に読めば、津田はそれらの嫌疑には意図的に言及しようとはせず、「はすみとしこの世界」でのヘイト表現がそもそも悪いのだと、問題をすり替えようとしているとの印象を受けさえする。

もっとも、「しばき隊」の初期からのメンバーであると自認する神原元弁護士は、久保田の行為はFacebookの公開情報をまとめただけでそこに違法性はなく、逆にネット住民が久保田の個人情報を割り出して公開したことこそ違法であるとしているのだが、あたかも津田の主張は彼の論に、依拠しているかのようにも見える。

ただし、これについては「しばき隊」の神原元弁護士と対立している高島章弁護士が、電話帳ですでに公開されている世帯主や電話番号などの個人情報であっても、それをあらためて公開することは違法であるとの判例を示して、久保田の行為の違法性を、すでに平明に論駁している

 

電話帳に小さい活字で載っていた「世帯主・電話番号」(自分自身による公開情報)が、「銀座・新宿」の電光掲示板に公開(他者による公開情報の公開」は許されますか? 「緊急避難」なるもので正当化できますか?(本文ママ)

 

多少の法律の知識があれば、判例を示して平明に論駁する高島章弁護士の主張に法的な妥当性を認めざるを得ないと思われるのだが、津田はそう思っていないようだ。そう理解しなければ、久保田の明白な不法行為を、「行きすぎた行為」「その是非」などと、あたかも単なる倫理的な問題のみが俎上に上がっているかのように、ことさら書く理由がないからだ。

また、同時に、Facebookの該当ページ「はすみとしこの世界」に人種的なヘイト表現がされていたとしても、そのことが久保田の行為の違法性を阻却するいかなる事由にも該当するとは思えないことも、指摘せざるを得ない。

敢えて挙げれば「緊急避難」かとも思うが、高島章弁護士も指摘するように、「はすみとしこの世界」に「いいね」をしたりコメントしただけで、「急迫の危難」があったとして、自らの個人情報の公開範囲を決定する個々のFacebook使用者の意思に反してまで、その個人情報を不特定多数に公表することを正当化するのは、個々のプライバシー権を勘案すれば、明らかに無理がある。

ましてや、久保田と「しばき隊」は、この個人情報のリストを自身のアカウントを使ってTwitterで公開する際に「レイシスト」とのレッテルを貼り、不特定多数に私的制裁をするように教唆すらしており、これを「緊急避難」の法理で「公益性」のもとに正当化することは、どうみてもでもできそうもないと思われる。

これらの論点から、津田のしている主張は、今でも「しばき隊」およびそのメンバーである神原元弁護士の言うところに著しく偏っており、中立を旨とするジャーナリストとしては、完全にアウトだと、わたしは考える。

津田大介は「(自分は)しばき隊の仲間ではない」とTwitterで主張しているが、「しばき隊」は、その度重なる不法行為や触法行為の結果、彼ら自身が「身バレ」して特定されたことで、ようやく社会的な制裁を受けているのであり、この言葉だけで、これまでの彼の報道の中立性が、すなわち担保されたと言えるものではないと考える。

「毒を以て毒を制す」と言わんばかりの理屈で、これまで続けられてきた「しばき隊」の傍若無人な振る舞いを、少なくとも、今後も一般人が許容するとはとても思えないが、そうである以上、彼が「しばき隊」をこのように擁護し続けるのなら、それは必然的に、彼のジャーナリストとしての致命傷にならざるを得ない。彼はそのことをどこまで理解しているのだろうか?

 

f:id:Nekodamashi:20151128151136j:plain

参考

セキュリティ会社元社員の個人情報流出事件の疑問点

高島章弁護士のTwilog