津田大介への公開質問状 2

C.R.A.C.の野間易通は、ことここに及んでも、自分たちの運動は「だいたいの正義」でいいのだと、自分たちの行為を正当化しようとしているが、わたしにはこの主張は全く理解しかねる。

確かに、「しばき隊」とその擁護者たちは、野間の「だいたいの正義」を祖述して、ことさら高邁な思想をそこに当て嵌めようと、徒らに言辞を弄しているが、わたしは、彼らのTwitterでの議論を読んでいて、もっと素朴な疑問を持たざるを得ない。

例えば、しばき隊の初期からのメンバーであると自認する神原元弁護士は、野間の「だいたいの正義」を受けて、「市民のコモンセンスに基づく『実践知』であり、独断主義に陥ることのない、可謬性の承認と両立する『正義論』」であると、これを美化している。

だが、ここで彼らの「実践」を虚心に見れば、彼らはその運動の初期から現在に至るまでずっと、批判するものをひたすら罵倒し、時には「暴力」を以てさえ相手を封じ込めようとしてきたことを、わたしはあらためて確認せざるを得ない。だからこそ、そんな彼らが「可謬性の承認」、つまり、自分たちも過(あやま)つことを認めているとは、わたしには、全くもって思えないのだ。また、少なくとも、わたしには、このような構成員からなるC.R.A.C.もしくは「しばき隊」という組織に、神原元弁護士の主張する「市民のコモンセンス」を見ることも到底できそうもない。

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もっと素朴な疑問を言えば、そもそも、彼らが言うように「だいたいの正義」で良いのだとするなら、権力を持つ側が「だいたいの正義」に基づいて、令状なしの家宅捜索や電話盗聴、予防拘禁などの不法行為をしても、彼らはそれを「だいたいの正義」だからと、それを許容するつもりなのかということだ。

それどころか、野間は、Twitter上での発言で、神原元弁護士の「正義が暴走して何が悪い!」という言葉を受けて、それを「名言」であると称賛し、「全く同感」として「しばき隊」の「暴走」を積極的に肯定すらしている。

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ものごとを考える上で重要なのは、前例に学ぶという態度だ。

かつて、ナチス政権下のドイツでは、ドイツ国内およびその占領地で著しいユダヤ人の迫害をしたが、これが可能となったのだは、当時ナチスに「だいたいの正義」があったからこそできたのだ。そして、多くのナチス党員が「だいたいの正義」に基づいて、ユダヤ人を強制収容所に送り込み、当時それが「だいたいの正義」だったから、当事者もそれを疑うことなく、ある種の合理性すら以って粛々と大量虐殺を行なった。

だからこそ、戦後、それを戦慄した知識人が、それを克服するために膨大な倫理的、哲学的な思考を積み重ねざるを得なかった。これがいかに苦悩に満ちたものであったかは、ハンナ・アレントの例を出すまでもないだろう。

つまり、結局のところ、彼らの言う「だいたいの正義」に依拠する以上、われわれはファシズムすら許容することにならざるを得ない。それどころか、野間や神原元弁護士の言うように、何の歯止めもなく他者への「暴力」すらも肯定し、法律さえも超越して「暴走して」良いとするなら、それはまさしくファシズムそのものであるとしか、わたしには思えない。

そして、このような思想(?)的背景をもって、まさしく「しばき隊」の久保田による個人のプライバシー権を侵害する「はすみ事件」や、新潟日報社報道部長の坂本による「高島弁護士誹謗事件」が起きたのだ。

津田大介は、飽くまでも「しばき隊」の久保田がおこした「はすみ事件」の矮小化を図ろうとしているように見受けられるが、F-Secureというセキュリティ関連会社の幹部社員が、個々人に何の同意もなく個人情報を集めて、「レイシスト」という恣意的なレッテルを貼った上で、ネット上の不特定多数にリストをばら撒き、社会的なリンチを教唆したということの意味を、本当にわかっているのだろうか?

何より戦慄せざるを得ないのは、このような思想(?)を持つ集団が、アンチ・ファシズムを標榜して、街頭をデモ行進をしているということだ。この図式は、あまりに醜悪すぎて、絶望しそうになる。いったい彼らは、何の権能をもって、自らに「思想警察」の地位が付与されたと思い込んでいるのだろうか?

「しばき隊」が、レイシズムのカウンターとして朝日新聞に登場した当初から、彼らは刺青をひけらかしがら「暴力」の論理で他者を威嚇、恫喝しながらその勢力を拡大してきた。津田大介は、それを知りながら、彼らの「正義」を積極的に擁護してきたのであり、その責任を問われるというのは、ごくあたりまえのことだろう。

津田大介を始めとするジャーナリストや知識人の容認と庇護がなければ、このような反社会的な行動指針を持つ団体がここまで勢力を拡大することはなかっただろうし、一連の事件が起きることもなかった筈だ。その点で、ジャーナリストとして、適切な批判を放棄してきた津田大介に、何の責任もなかったと言うのは、どうみても無理があるとわたしは考える。


参考

市民にとっての「正義論」〜野間易通さんの「だいたいの正義」論に示唆を得て